【ペットロスと看取り】猫や犬が最期を迎えるとき、私たちにできることとは

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「もうこの子がいなくなったら、生きていけない」

「こんな子、二度と出会えない」

そう思いながら何度も犬や猫と別れを経験してきました。

それでも、また新たな命を迎え、生きてきました。

私は15匹の猫と暮らしていますが、かつては犬(ゴールデンレトリバー2匹、セントバーナード)も一緒でした。

多頭飼育をする中で、何度も「看取り」の時間に立ち会ってきました。

そして、いよいよ命が尽きるとき、私がたどり着いた考えがあります。

それは「静かに見守る」ということ。


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◆治療の選択は、飼い主によって違う

「最後までできることはやってあげたい」と思うのは当たり前のこと。

でも、それが必ずしも“治療”という形とは限らない、と私は思っています。

例えば、私の母は「最後まで治療をさせたい!」、医療ミスでもないのに亡くなったら「あの時の医師の処置が悪いんだ!」っていうタイプ。

一方、私は体重8kgの猫が3kgまでだんだん落ちたとき、直感的に「これはもう、無理はさせたくない」と感じました。

見込みがなければ、私は自宅で静かに寄り添うことを選びます。
延命治療はさせないタイプです。


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◆“治療する体力すらない”という現実

これは、私自身の経験からも来ています。

過去に食中毒でひどい症状になったことがあり、黄色や緑色(胆汁)の嘔吐が続いた時、私はこう思いました。

「病院に行くのも、待合室で座るのも辛い。元気な人しか病院に行けないわ」

その時に、気づいたんです。

動物も同じだと。苦しい体を引きずって通院するのは、相当な負担だろうと。

もちろん、まだ治療で回復する可能性があるなら、話は別。

でも、もう回復の見込みがない時、体力も尽きているときに「さらに通院や延命を選ぶことが最善かどうか」は、飼い主として悩むところです。


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◆点滴や通院が苦しみになることもある

知り合いの方が言っていました。

「毎日点滴をしに通っていたけど、その子はどんどん苦しそうになっていった」と。

もちろん、ケースバイケース。

でも、「生かされる苦しみ」を与えてしまうこともある、ということは忘れてはいけない。

猫は強くて、我慢強くて、そして最期まで“生きようとする力”があります。

だからこそ、逆に「無理に生き延びさせること」が、残酷になることもあるのではと感じるんです(あくまで個人的な意見です)。


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◆おばあちゃんの看取りから学んだこと

私の祖母は膀胱がんに何度も再発し、その後転移していました。

亡くなる1カ月前に、祖母は私にこう言いました。

「もう本当に辛いから、延命はしないで」

「早く逝きたい」

私はこの言葉を、心に深く刻みました。

もちろん、この言葉が100%というわけではないけど、本人に痛みやだるさが強く出てき始めたら(猫は話さないからそんな感じだったら)、延命はできないなって思っています。


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◆猫と犬、それぞれの“旅立ち方”

猫は、静かに旅立とうとします。

亡くなる少し前から、クローゼットの奥に潜ろうとしたり(とにかく真っ暗なところへ行きたがる)、人との接触を避けたがったり。

まるで「ひとりで逝かせて」と言っているかのように。

一方、犬は、最期の最期まで尻尾を振って、飼い主に応えようとする。

それがまた、切なくてたまらない。

「そんなことしなくていいんだよ」って泣きながら撫でたこと、忘れられません。


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◆これから訪れる別れに向けて、できる覚悟

治療の手が尽きたとき──

もう何も医療的なケアができない状態になったとき、

猫や犬にとって「静かに穏やかに過ごす時間」を用意してあげることは、

ある意味で私たちにできる“最も深い愛情”なのかもしれません。

最期の迎え方に、正解なんてありません。

それでも、ただ痛みに耐えながら生きながらえさせるより、

飼い主のそばで、静かに、いつもの空気の中で旅立てる方が

その子にとっては、幸せな最期になることもあると思うのです。

旅立ちが近づいてくると、どうしても「もっとこうしてあげられたかも」と思ってしまいます。

それでも、後悔の気持ちもまた、愛情の証だと私は思っています。

猫や犬の看取りは、どこか人間のそれと重なります。

命が命を看取るという、あの瞬間に立ち会えること──

それ自体が、きっと小さな奇跡なのだと思います。