猫と暮らすようになると、
不思議な変化が起こります。
最初はただ「可愛い」「癒される」存在だった猫が、
いつの間にか、世界の見え方そのものを変えてしまうのです。
私は現在、15匹の猫と暮らしています。
ほとんどが野良猫出身です。
この生活を続ける中で、
自分でも驚くような「感覚」を持つようになりました。
野良猫の状態が、一瞬で分かってしまうようになった
外で野良猫を見かけたとき、
気づけばこんなことが、瞬時に分かるようになっていました。
- 毛並みが荒れているか、艶があるか
- 体重がおおよそ何キロくらいか
- 若いのか、もう年を取っているのか
- 発情期に近いかどうか
- うまく外で生活できているか
- どこかを痛めていないか
自分の中では、
まるでドラゴンボールのスカウターのように、
情報が一気に流れ込んでくる感覚です。
これは特別な能力ではありません。
毎日、猫を見て、触れて、世話をしているうちに、
自然と身についた「観察の積み重ね」です。
見えるようになると、楽になるわけではない
一見すると、
「猫のことが分かるようになるなんて、良いこと」
そう思われるかもしれません。
けれど実際は、
見えるようになるほど、苦しくなる場面が増えました。
外で野良猫を見たとき、
- この子は、もうかなり状態が悪い
- このままでは長く生きられないかもしれない
- 誰にも気づかれず、消えていくかもしれない
そう感じてしまう瞬間が、確実にあります。
それでも、助けられない現実
私はすでに15匹の猫と暮らしています。
これ以上、猫を迎える余裕はありません。
頭数の問題だけではなく、
お金、時間、体力、そして心の限界があります。
だから、
「助けられない」
「見て見ぬふりをしなければならない」
そう自分に言い聞かせるしかない場面が、どうしても出てきます。
これが、一番つらい。
猫が嫌いだからではありません。
無関心だからでもありません。
分かってしまうからこそ、苦しいのです。
普通の人は、そこまで見えない
多くの人は、
野良猫を見ても、そこまで深く考えません。
それは冷たいからではなく、
見えていないからです。
見えなければ、心は傷つきません。
でも、見えてしまう人は違います。
これは、猫と長く暮らした人が背負う、
ひとつの「代償」なのかもしれません。
救えなかった命が、無意味になるわけではない
全部を救えない自分を、
責めてしまいそうになる日もあります。
けれど、私は思います。
15匹の猫が、
今日も安心して眠れているという事実は、
決して小さなことではありません。
すべてを救えなくても、
救えた命が確かに存在している。
それだけで、この世界は少し違っているはずです。
見えすぎる人が、壊れないために
野良猫の状態が分かるようになることは、
優しさの証でもあります。
けれど、その優しさが自分を壊してしまっては、意味がありません。
できる範囲で、
できることを、続ける。
それ以上は、
無理に背負わなくていい。
猫と暮らすということは、世界の影も知ること
猫と暮らすと、
確かに幸せは増えます。
でも同時に、
見なくてよかったかもしれない現実も、見えてしまう。
それでも私は、
この感覚を後悔していません。
今、家で眠っている猫たちを見て、
「これでいい」と思えるからです。
